パウル・クレーのチュニジア旅行《色彩画家宣言》と第一次世界大戦の勃発
カイルアン門の前 1914年 水彩/紙 パウル・クレー・センター ベルン
チュニジア旅行
1914年、第一次世界大戦が勃発する直前、34歳のパウル・クレー(1879 – 1940)は高校の同窓生で画家のルイ・モワイエ(1880 – 1962)とモワイエと通して知り合ったアウグスト・マッケ(1887 – 1914)とともにチュニジアを旅行します。
クレーはこの旅行で色彩に目覚めたと言われています。
モスクのあるハマメット 1914年 水彩、鉛筆/紙 23.8 x 22.2 cm メトロポリタン美術館
色彩画家宣言
有名な《クレーの日記》の1914年4月16日の記述には、「色彩は私を永遠に捉えた」との記述があり、クレーの色彩画家宣言として理解されてきました。
《色彩は私を永遠に捉えた。私にはそれがわかる。この至福の時が意味するものは、私と色彩は一体だということ。私は画家だと言うこと》
「クレーの日記」1914年4月16日
しかし、最近の研究では、この文章はクレーが後年書き加えたとみなされています。
だとしたら、これはクレーのセルフ・プロモーションの現れになります。
現代画家にとってセルフ・プロモーションは必須の要素ですよね。この点でもクレーは現代画家の先駆者だったようです。
チュニジア旅行で描かれた作品は色彩も見事ですが、よく見ると、小さく描きこまれたラクダやターバンを巻いた人たちなども可愛いですね!
赤と白のドーム 1914年 水彩、グアッシュ/紙、厚紙 14.6 x 13.7 cm ノルトライン=ウェストファーレン美術館 デュッセルドルフ
赤と黄色のチュニスの家々 1914年 水彩、鉛筆/紙、厚紙 21.1 x 28.1 cm パウル・クレー・センター ベルン
第一世界大戦勃発 – 友の死
クレーがチュニジアから戻るとほどなくして第一次世界大戦が勃発しますが、この戦争はクレーの運命を大きく変えます。
開戦直後には、いっしょにチュニジアを旅したアウグスト・マッケが戦死します。クレーよりも8歳年下のマッケはカンディンスキーの《青騎士》を舞台に活躍しており、将来を嘱望されていました。
そして、1916年には《青騎士》の中心メンバーでクレーが最も信頼を寄せていたフランツ・マルク(1880 – 1916)が戦死します。36歳のクレー自身もマルクの戦死直後に召集され、大戦終了後の1919年2月まで兵役に就きます。
ドイツ画壇の騎手となる
マッケとマルクの戦死により、それまでどちらかというと《青騎士》の周辺にいたクレーは、否応なくドイツ現代絵画の騎手としてドイツ画壇の表舞台に引き摺り出されることになったのです。
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